部屋掃除をしたら高校三年生時の小論文模試が出てきた(原文ママ)

 人は何故排泄物を出さなければならないのだろうと厠という密室で考えたことがある。

 それは「人は何故死ぬのだろう」「人は何故眠るのだろう」とひがな一日考えてしまう私達くらいの年代のそれと同じと思っていたのだが、この文章を読んで、これは誤認であったことに気がついた。何故なら、人は排泄物を出す分だけの物質を摂取しているからという明確な解答があったのである。

 もうひとつ、人は何故自分よりも他人の排泄物に示す嫌悪度が高いのだろう、とも考えたことがある。

 恐らく同じような形状であり同じような臭いであるのにも関わらず、他人の糞には吐き気がするが、自分の糞はなんだか許せてしまう、ときには可愛気さえその姿に見る。これには様々な要因があるだろうが、私が提唱する内のまずひとつは、行為をする前に見る糞とした後に見る糞の印象の違いである。したくなったときに厠をみつけて入る。そしてそこで”他者の痕跡”をもみつけてしまったとき、どう思うか。「私が我慢しているときに立派なものをしてすっきりしやがったのかこの野郎」などとののしりたくなると思われる。逆にし終わった後に自分の残骸を見ると、「よく頑張ったな」と自分をほめてやりたくすらなるのだ。以上がひとつめであるが、道端に落ちている野糞をたまたま見てしまった場合などがあり、あまり応用がきかぬ要因であるので、今のところ私が考える最大の要因は次に述べるものである。

 排泄物は、人間を新しくつくりかえた、もしくは進化させた結果の余り物だからだ。それは過去の自分の遺物であり、自分を新しくさせてくれた功労者の落し物である。功労者と落し物は、勿論食物と糞であるし、新品パンストとそのパッケージ、もしくは伝線パンストともいえよう。

 食物は体内に入り新しい血となり肉となる細胞をつくりかえ、その結果として古いものいらないものが糞や垢として私に別離を告げる。過去の自分がいなければ現在の自分はいない、それと同様に糞や垢がなければ最新の細胞で出来ているこの身体はない。他人の過去である他人の排泄物は他人も新しく進化している証拠だから、エゴイストの我々人類はそれに嫌悪感を示すと同時に、自分を新しくしてくれた排泄物には好意さえ感じるのだ。

 だがもっと確かな要因を命題に私はこれからも厠という密室で考え続けるのである。
(一000字)

寸評:排泄という行為、そして自分の糞は許容するが他人の糞は嫌悪してしまう理由について、自分なりに考えを巡らした形跡が十分に窺える内容に仕上がっている。その点は大いに評価したい。この論文をほほえましくさえ読み手に感じさせてしまう一つの大きな要因は、糞という視線を背け鼻をつまみたくなるような代物に真っ向から向き合って懸命に記述しているところだ。下品とか低俗とかいう言葉で片付けることなく、真剣に考えている。これは某大型の論述では特に必要とされる姿勢である。しかし、こじつけたリクツという感を免れない。排泄物そのものについての、君の感覚を、もっとしつこく掘り下げた上で、考えてみるべきだろう。その対象は、糞や垢だけでなく、抜け毛、ツメ、さらには体臭にまで広げてもいいだろう。また、世の中には、他人のモノに興味を持つ人もいるという事実は、同じことのウラガエシとして考えられるかもしれない。糞の果たしている役割りではなく、それが象徴的に意味しているのは何か、ということを考えて欲しい。(採点者:安藤)

得点:50点(100点満点)

数年を経た今思う寸評の寸評:安藤さんは他人のモノに興味を持つタイプなのではないだろうかと大人になった今、確信を持っている。