近藤先輩とぼく

ぼくが部室のドアを開けるともう既に先輩がいた。冬の弱い日差しを浴びながら、古いストーブを勝手につけて暖を取っていた。
「なんだ、先輩きたんですか?」
「ん?きちゃわるい?」
「別に。でも勝手にストーブをつけるのは止めてください。怒られるのはぼくなんですから」
寒がりの先輩はいつも勝手にストーブをつけて先生に注意されていた。ぼくがいってもきかないんだもの。
でも、最近はぼくがみんな言うからそんなこともなくなった。やっとそれに違和感もなくなってきたのに…
「なんか、部長さんって感じだね」
先輩はそんなこと言ってぼくをからかう。言葉の下に感情を見せないのんびりとした平坦な口調。ちょっとの間、聞いてなかっただけなのになんだか懐かしい気がする。そんなことはないって分かっていたけど、そんな短い間にひとが変わることなんてないって思っていたけど、ぼくは不安だった。不安?そう、不安だ。この人はもうすぐ、ぼくの手の届かないところに行ってしまうのだ。
「ええ」
そんなことが頭の中をぐるぐる駆け回っている中、ぼくはなるべく平静を装って答えた。今はぼくが部長なんだ。ぼくがこのひとみたくならなきゃいけないんだ。いつもふざけてるようで、頼りになったこのひとみたく。どんなに落ち込んでいるときでも、ぼくを笑わせてくれたこのひとみたく。
「そうか」
相変わらず感情を表に出さない声。その響きがまたぼくにすこし不安を落とす。
「おまえもなんだか変わったなぁ…背丈、まだ伸びてんの?」
ぼくは高校に入ってからも背が伸びた。始めは先輩と同じぐらいしかなかった背もだんだんと追い越していった。勉強もスポーツもほとんど完璧だった先輩はそれだけがコンプレックスらしい。
「もう止まりましたよ」
不安の渦に飲み込まれそうになりながらも、あくまで声を震えさせないように…ぼくは精一杯答えた。先輩はまた黙りこくってしまう。沈黙。周りの音が日差しに吸い込まれるようになった。世界中が黙りこくってるのに、ストーブだけが轟音を轟かしてるようだった…
「……先輩ッ……」
ついに声を漏らしてしまった。そうでないと、静寂に押しつぶされそうだった。ちっとも変われない弱いぼくをさらけ出してしまった。
突然、静寂に切れ間がはしった。すすり泣くような声、一瞬そう思っただけどすぐそれが間違いだって気付いた。先輩はこらえきれず、馬鹿笑いをしだしたのだ。
「ちっとも変わんないな、お前」
だって。こういうひとなんだ。いっつもぼくをからかって。ぼくは先輩に抗議しようと、口を開こうとした。でも、こっちを向いた先輩と目があって何も言えなくなってしまった。あの、ぼくを何もかも見透かすような目で見つめられると何もいえなくなってしまう。ずるい。
先輩が立ち上がってこっちのほうに歩いてきた。ぼくは立ち尽くしたまま。動けない。ぼくはまた魔法にかかってしまった。冷たい手がぼくの頬に触れる。
「うん。いい顔してるよ。お前はそれでいいんだから。俺と張り合おうなんて思わなくていいよ」
ほら、やっぱりぼくを見透かしてる。ぼくはずっとこの人の掌の上なんだろうか。そう思うと、ぼくの背に心地よいような戦慄がはしった。
「お前、俺と同じ大学受けんだろ?」
実を言うと、迷っていた。先輩はこう見えて頭がいいし、それに…
不意に、先輩の掌が離れ、冷たい指が頬を這う。這ってるところが電流が流れてるみたいに、ビリビリって……指があごに止まる。それだけで顔が動かせなくなる。それから…先輩の顔が近づいてきて…目を閉じてしまった。先輩にされるがまま・・・やっぱりぼくは魔法にかかっているのかも。触れるだけのキス・・・とても長く感じたけど、多分ほんのちょっとの間だけだったんだろう。やっと、唇が離れた瞬間、ぼくの身体はがくがく震えてしまった。頬が上気してるのが自分でも分かるくらい。こんなに、ドキドキしてるなんて、心臓が止まっちゃいそうだよ。
でも、先輩はぼくから離れてくるりと踵を返してしまった。その瞬間、ぼくは期待していた自分に気付いた。
「……続きはまた今度な……じゃあ…」
そういうと、そのまま先輩は出て行ってしまった。しばらく、立ち尽くした。ドキドキがおそまるまで。そして、ゆっくりと、ぼくは先輩の座っていた席のほうに歩き出した。みんながくるまで、底で日差しを浴びていることにしようと思った。先輩のように……