地下鉄に乗る

私は地下鉄に乗り、帰宅しなければならない。帰宅という行為に意味はないが、敢えていうならば習性だろうか。私はこの習性を歓迎する。さもなくば時間は驚くほどの重圧を私に与え、茫漠たる社会においてたちまち錯乱するであろう。帰巣本能とはつまり、いや、なんでもない。
自動改札機はぺろりと定期券を平らげ、私は歩いて数十センチ先にある排泄物を回収する。瞬く間の出来事である。仄めくざわめきと強風に包まれ私はプラットホームを黙々と突き進むのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。私は見るでもなく電光掲示板を見、待ちこがれるでもなく電車を待った。ホームが無音であると錯覚し、私は無になった夢を見る。単調なシグナルが鳴り、私は私を自覚した。
女性の穏やかな声が拡大されホームの隅々にまで行き届く。いよいよ電車が来るのだ。目は無意識に電車が来る方へと向き、自分の立っている位置を確認する。―この距離ならば生命の危険はない。
暗いトンネルの向こうに光が見え、ホーンと暴風が私をかき乱す。やや後じさりし、車両が静止するのを死んだ気持ちでただ待った。空気音とともに扉が開き、乗客が何人か降りる。皆一様に伏し目がちで、私もなんとなく目をそむける。これもまた習性であろうか。
私を呑み込んだ電車は景気よく滑り出し高速で私を運び出す。揺れと軋みが私に語りかけるが、やがて気にならなくなる。車内は薄暗く乗客の表情も明るいとは言えない。外は闇。どこかで聞いたような声が次の目的地を告げている。それは私の知らない駅だった。